手探りで前に進んだ時代
宮本 雄二
日中友好会館 会長代行・副会長
元駐中国特命全権大使
1969年に外務省に入った頃、いつ中華人民共和国との正式のお付き合いが始まるか、全く予想もつかなかった。72年1月、ニクソン大統領が訪中したときは台湾で中国語の研修中だった。ようやく手にした日本の新聞の関係記事はすべて当局の検閲により真っ黒に塗りつぶされており、何が起きているのかよく分からなかった。同年9月の日中国交正常化が実現した時は、米国研修中でボストンにいた。ところが地元の新聞は田中総理の訪中を経済欄において短く取り上げただけだった。こんなに重大なことが起っているのに、自分はいつも蚊帳の外だ、これが自分の運命かもしれない、と少し暗い気持ちになったことを思い出す。
73年7月に中国課に配属となり、それから長く深い中国とのお付き合いが始まった。早速、國廣道彦中国課長(米語研修)の中国語通訳をやらされた。当時、駐日中国大使館政治処長の日本語通訳をやっていたのが武大偉さんで、1週間に何度も抗議のために外務省に来たものだ。私が中国課長の頃は日本処長で、大使のときは外務次官だった。いろいろ相談しながら日中関係の発展に知恵を出し合った。中国課長のときの駐日中国大使館政治処長が王毅さんで、北京で首席公使をしていた頃はアジア局長であった。困難な中、日中関係の発展に協力し合った。ちなみに私が中国課長のときのアジア局長、首席公使のときの駐中国大使が、当館の谷野作太郎顧問であった。
50年前、日中両国政府は、それまで全く知らなかったのに突然夫婦になったような感じで、戸惑いながら仕事を始めた。今は、そういうことはないが、あの当時、交渉のために北京に行くと、次の交渉の日時を教えてくれず、突然、呼び出しがかかる。しゃくなので見物に出かけると途中で呼び戻される。あの当時の中国政府の意思決定のプロセスが事前通報を難しくしていたようなのだが、それを知らないわれわれは中国政府の“悪意” だと思ったりしたものだ。お互いに相手のことをよく知らず、相手のものの考え方もよく分からないまま手探りで前に進んだ時代であった。しかし、やるべきことはいつも山のようにあり、それらに悪戦苦闘しているうちに相手に対する理解は大きく進んだ。
個人的には多くの中国の友人に恵まれ、いろいろ助けてもらった。50年前は、こういう人間関係が出来上がるなど夢にも思わなかった。現在、日中関係には強い逆風が吹いている。しかし人と人との関係はさらに深めていくことができる。若い世代の相互理解の壁は、われわれの世代と比べると相当、低くなってきている。人と人との交流を広げ、深めていくことにより、国民同士の関係は近づく。今から50年後の100周年に、われわれの孫の世代が、50年前の人たちは日中関係の将来をどうしてあんなに心配していたのだろう、と首をかしげる時代になっていることを願って止まない。