私と日本の50年
黄 星原
日中友好会館 中国代表理事
今年は中国と日本の国交正常化50周年であり、私と日本の縁も50年前から始まり、時とともに深まってきました。
1972年、国交正常化のニュースは、私の故郷、中国とロシアの国境の近くにある虎頭鎮(「虎頭要塞」ともいう)にも伝わりました。それを受け、元軍人の父が少し興奮して私に、「虎子(私の子供の頃の呼び名)、君はいい時代に生まれたんだよ。中国と日本はもう戦争をすることはないだろう」と言っていたことが印象的でした。
1982年、吉林大学日本語学科二年生だった私は初めて日本人と出会いました。教師の小川先生でした。先生は、テキスト「鶴の恩返し」を解読した時、鑑真の渡日や戦後中国による日本人捕虜の釈放などの事例を挙げ、「古代の中国は日本の先生であって、近現代の中国は日本の恩人です。これから日本と中国はずっと友達でいたいし、いつになっても戦争をしてはならない」と感情をこめて話してくれました。
その頃、中国の若者たちは日本語の学習意欲が高く、日本の映画や歌は人気になり、対中ODA(政府開発援助)も実施され、中日友好は最高潮を迎えていました。
1992年、長崎と福岡の中国総領事館を後にした私は、長期駐在の三番目の目的地である大阪に来ました。そこで初めて参加した結婚式は、友人の羅悠真さんと日本人の奥さんとの披露宴でした。羅氏の祖父は、抗日英雄として知られていた馮玉祥将軍であり、祖母は中華人民共和国建国後、初の民間訪日代表団を率いた李徳全団長です。羅さんの母方で、世界的免疫学の専門家の馮理達さんは、結婚式の挨拶で「育ちの違う二人が夫婦になるのは簡単なことでなく、縁があるからです。これからどんなことがあろうとも、二人には話し合ってもらいたい。喧嘩もよくなければ、相手を裏切るようなこともあってはなりません」というお話をされたのを鮮明に覚えています。中日関係もこうあるべきではないでしょうか。
こういった仕事の関係で日本のマスコミ界の友人がたくさんできました。その中には日本経済新聞社の鮫島敬治記者やNHKの加藤高広記者がおられました。鮫島さんは文革中につらい思いをしながらも、その後ぶれることなく中日友好を唱えていた人物です。私が2000年に短期派遣されたミャオ族の貧困村の「希望小学校」は、モンゴルで客死された加藤さんの弔慰金で建てられました。彼らの実事求是の精神、真善美を追求する姿勢は一生忘れられません。一方、日中友好会館の理事に就任するにあたり、十数年ぶりに日本に戻ってきた私が最も感じたことは、日本で語られる中国と実際の中国との差があまりにも大きく、これが民意と政府の意思決定をミスリードしているという点です。
2002年、私は中国駐日本国大使館で報道官を務めることになりました。中国が在外公館で報道官制度を設け始めた頃です。想定外のことでしたが、「在瀋陽総領事館事件」が発生し、私は一夜にしてテレビの有名人になりました。マスコミにミスリードされた日本の人々に「事件」の真相を説明するために百回以上国際電話をかけました。さらに、マスコミのインタビューに数十回も応じ、中国の立場を説明しました。
2012年、トリニダード・トバゴ共和国へと赴任する前に、中国外交学会の理事長として最後に接待した日本のお客様は海部俊樹元首相でした。懇談中、海部元首相は自分が1990年に内閣総理大臣在任中にアメリカの反対を押し切って中国と友好的な関係を堅持していたときのことに言及し、「私がやったことは日本の国益を考えてのことです。お互いの利益のため、またアジアと世界の平和のためにも日中両国の人々は世々代々の友好を貫くべきです」と仰っていました。
今日、中日関係は再び困難な状況にある中、中日関係の先陣を切り、友好と協力の原則を堅持してきた勇士たちのことを偲ばずにはいられません。
中国外交学会理事長として海部俊樹元総理と懇談(2012年)
50年という半世紀の時間があっという間に過ぎてしまいました。中国は共同富裕という二つ目の「百年目標」に向かって努力しています。日本も岸田内閣の下で未来に向けて新たなスタートを切りました。今までの50年間の中日関係の紆余曲折を振り返り、そしてこの半世紀の間の世界の変化を観察すれば、「中日共同声明」の初心を忘れず、友好と協力の原点に立ち返ることこそが両国間の問題を解決するキーではないでしょうか。
団結してこそ勝てる新型コロナウイルス、協力して初めて発展する世界経済、相互信頼が作る互恵関係により成り立つアジアの安全保障、そして平和が唯一の選択肢であり二度と戦争はしないという決意。これらが、中日関係の次の50年を展望するとき、引っ越せない隣国同士として、私たちの賢明な選択ではないでしょうか。