後楽寮生との40年

 今年は日本と中国が国交正常化して50年になるという。私もすでに中国“人” とは40年以上の付き合いだ。最初の出会いは1977年、偶々通りかかった飯田橋の職業安定所で善隣学生会館を紹介されたのだ。正常化5年目のことだ。毛沢東も周恩来も知らない22歳だった。その後善隣学生会館は建て替えられ、名称も日中友好会館に改称された。中国から次々と留学生、外交部や教育部、中日友好協会の職員たちが派遣されてきた。東大や東工大などに通う留学生の頭の良さに圧倒された。のちには美術館を担当して中国の美術家たちとも知り合った。あっという間の25年だった。会館を離れてからは縁あって中国企業に就職し、今に至っている。
 つい3年前のこと、留学生事業部の田辺さんから、劉さんという昔の留学生が私を探していると連絡があった。すぐ1979年に来日した劉富庚さんだとわかった。無性に懐かしかった。当時の留学生たちの日本語は完璧だった。
 劉さんは東大の研究室に通っていた。ある日、いつものように東大の本郷キャンパスから自転車で出てきた劉さんは富坂警察に連行されてしまった。巡回中の警官に「どこから来た」と聞かれ「東北」と答えた。荷台には研究室からもらった雑貨が括りつけてあった。警官は、日本の東北出身と勘違いし不審者と判断してパトカーを呼んだらしい。確かにジャンパーをはおり自転車に乗った劉さんは「東大生」スタイルではなかった。国家派遣の留学生が捕まったと慌てる私たちに、劉さんは「日本のパトカーに乗ることができた。いい土産話になった」とアッケラカンとしていた。
 私は微信(ウイチャット)で劉さんに連絡した。彼は白内障でよく見えないと言いながらもすぐに返事をくれた。3か月後、彼の住む大連に向かった。空港に出迎えてくれた彼は、70歳の老人になっていたけれど、口を開くとあのユーモアに富んだ日本語は健在だった。彼の案内で大連の街を歩きながら、餃子屋で水餃子を食べながら、私たちはしゃべりにしゃべった。まるで昨日、後楽園庭園を歩きながらおしゃべりしていた続きのようなとりとめもない話だった。「明日もまたいつもの公園のベンチで続きを話そうね」と言わんばかりに別れた。あっという間の大連訪問3泊4日だった。
 彼らとの日々を想うと今でも40年の時が過ぎたことが信じられない。

2022年2月12日

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