中日国交正常化50周年を記念して 日中友好会館が拓く友好の新天地

 2003年、私は駐大阪総領事の職を解かれて帰国後すぐに外交部の命で東渡し、財団法人日中友好会館中国代表理事に就任しました。そこで我が国の文化部、教育部、対外友好協会から派遣された職員、日本の友人達と共に3年間仕事をし、たくさんの良い思い出を残しました。
 日中友好会館は中日両国政府の共同事業であり、両国が人員、文化、教育交流、友好活動を行うプラットフォームであります。中日国交正常化10周年記念の合意に基づき、両国政府は偽満洲国留学生寮の敷地に、オフィスビル、美術館、後楽ガーデンホテル、後楽寮、日中学院を含む壮大な建築群を建てました。会館は東京都の中心にある文京区後楽にあり、大東京の景観の一つとなっています。会館の建設時に両国政府より出資された資金以外にも、日本の財界や友好人士たちから善意で30億円もの寄附が集まりました。

会館の完成は、中日友好の新天地を拓き、中国と外国の協力という新しいモデルを創設しました。その共同運営方式は世界で唯一無二です。会館の理事会は日本の政界、財界、友好団体の代表と中国政府から派遣された代表、華僑代表で構成され、中日両国の共同管理の原則を元に組織されています。 理事会選挙で選ばれた初代会長は、周恩来総理から「中日友好掘井人」と呼ばれた古井喜実先生で、厚生大臣・法務大臣と日中友好議員連盟会長を務めた人物です。「中国は得難い隣人で、日本の宝だ。争えば共に傷つき、相補えば共に栄える」。これは古井先生の一貫した「中国観」と「日中関係論」です。第二代会長の後藤田正晴先生は内閣副総理を務め、「中国の発展と繁栄は日本に繁栄と安全をもたらす」と何度も唱えました。第三代会長の林義郎先生は厚生大臣・大蔵大臣と日中友好議員連盟会長を務めました。

 林義郎会長と筆者(承徳避暑山荘にて)

《留学生事業》
 後楽寮についていえば、この有名な「中国人留学生の家」は、2004年に私が会館で勤務していた時既に、我が国の3,000人以上の学生に恵まれた居住環境を提供していました。会館の村上立躬理事長(当時)によると、チベット、青海省を除く、すべての中国の省・区・市の学生がここに住んでいました。
後楽寮は個室で、ホテル式に管理されています。シャワー室、運動室、閲覧室、会議室、理髪室そして食堂が完備された施設です。中国外交部から2人のコックさんが派遣され、学生たちのためにおいしい中華料理を調理していました。余暇生活は豊富多彩で、毎週カラオケをしたり、ダンスパーティーをしたり、映画を上映したり、各種の講座も行われていました。
 毎年、中国の国慶節と春節には、後楽寮入口に赤い灯籠が高く掲げられました。会館は中国の学生たちのために祝宴を催し、みんなで一緒に餃子を作り、歌を歌って踊り、節日を楽しく過ごしました。学生たちは異国におりましたが、自分の家に帰ったように感じていました。物価が世界上位の東京では、後楽寮の宿泊費の安さが信じられませんでした。入寮できる学生たちは皆とても幸運に思っていました。

村上立躬理事長と筆者

後楽寮の寮生たちと一緒に

          (後楽寮入口にて 前列左4が筆者)


 後楽寮運営にかかる費用は少なくありません。ですが、この後楽寮を語る村上理事長の言葉は誇りにあふれていました。
元後楽寮生3,000人のうち、1,000人ほどが修士号や博士号を取得しました。多くの学生は帰国して、様々な分野で活躍しています。会館が中国の人材育成のために力を尽くすことができることを大変嬉しく、誇りに思います」と話していました。
 私は彼のこの言葉を聞き「孔子は弟子が三千人いたといいます。そのうち七十二が賢者となりました。あなたは彼よりも徳があります。まさに天下の桃李の師といえるでしょう。」と言い、彼はそれを聞いてとても喜んでいました。
 中日国交正常化50周年にあたり、日中友好会館の益々のご発展と、両国人民の友情を増進させるための更なる飛躍を心よりお祈り申し上げます。

(翻訳:同志社国際高等学校3年 松村伶)

top
ページ